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東京高等裁判所 昭和29年(う)3237号 判決

控訴人 原審検察官、同弁護人及び被告人

被告人 小鹿原誠一 外九名

弁護人 福田力之助 外三名

検察官 吉岡述直 外二名

主文

検察官及び被告人増子正司、同山口利春の本件各控訴を棄却する。

原判決中被告人小鹿原誠一、同田代フデ、同神原美澄、同富田時夫、同財津幸雄に対する部分を破棄する。

被告人小鹿原誠一を懲役二年に、被告人田代フデ、同神原美澄、同富田時夫、同財津幸雄を各懲役一年に処する。

原審における未決勾留日数中被告人小鹿原誠一、同田代フデ、同神原美澄に対してはいずれも百三十日を、被告人富田時夫、同財津幸雄に対してはいずれも百日を、右各本刑に算入する。

被告人小鹿原誠一、同田代フデ、同神原美澄、同富田時夫、同財津幸雄に対し、いずれもこの裁判確定の日から五年間右各刑の執行を猶予する。

(訴訟費用の負担省略)

理由

本件各控訴の趣意は、東京高等検察庁検事吉岡述直提出の東京地方検察庁検事正代理検事田中万一作成名義、被告人小鹿原誠一、同田代フデ、同神原美澄、同増子正司、同富田時夫、同財津幸雄、同山口利春の弁護人福田力之助、同守屋典郎、同青柳盛雄、同柴田睦夫共同作成名義の第一、第二、右弁護人青柳盛雄、同福田力之助、同守屋典郎共同作成名義、被告人小鹿原誠一、同田代フデ、同神原美澄、同増子正司、同富田時夫、同財津幸雄、同山口利春各作成名義の各控訴趣意書記載のとおりであつて、右検察官の控訴趣意に対する答弁は、被告人佐竹英一作成名義の抗弁書と題する書面、及び被告人内田和利作成名義の昭和三十年十月十五日附、同年同月十八日附各控訴趣意書に対する被告人抗弁書と題する二通の書面にそれぞれ記載してあるとおりであるから、これらをここに引用し、これに対して次のとおり判断する。

検察官の控訴趣意について。

被告人秋山テイ子、同佐竹英一、同内田和利の三名に対する本件各公訴事実の要旨は、被告人らは、いずれも昭和二十七年五月三十日午後七時十分ごろ、東京部板橋区板橋七丁目二百三番地日本化工機株式会社寮庭に開かれた破防法粉砕けつき大会と称する会合に約三百名と共に参加し、右大会において、「警官の武装解除」その他のスローガンを決議した後、同日午後七時三十分ごろ、一部指導者の「行動に移れ」という号令に従つて、同所から無許可集団示威行進に移り、手に手に薪棒、石、ナツト等を所持し、スクラムを組み、労働歌を唱つて行進し、同日午後七時四十分ごろ、同区板橋十丁目四十一番地板橋警察署岩之坂上巡査派出所前に至つた。その際、被告人らは、他の参加者と共謀の上、そのころから同日午後八時十分ごろまでの間にわたり、同派出所前に一列横隊に整列し同所を警備していた板橋警察署勤務巡査部長服部清美ら十一名の警察職員に対し、包囲態勢を執つて多衆の威力を示し、かつ口々に、「今度こそはきさまらをやつつけるぞ。」「吉田の犬め。」「殺してやるぞ。」「武装を解除しろ。」「武器を捨てろ。」等と怒号して、前記警察職員の身体に危害を加える如き気勢を示して脅迫した上、更に、同人らに石、薪棒、硫酸ビン等を投げつけて、前記服部部長らの右公務の執行を妨害し、かつ、右暴行に因り、同人らに対し全治一週間ないし十日間を要する頭部挫創等の傷害を負わしめたものである。というにあるところ、原判決が、これを認めるに足る犯罪の証明が十分でないとして、刑事訴訟法第三百三十六条に則り、いずれも無罪の言渡をしていることは、所論のとおりである。しかるに、所論は、右各公訴事実は、原裁判所で取り調べた証拠によつていずれもその証明が十分であるから、原判決は、事実を誤認したものであつて、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかである旨主張するにより、審究するに、原審で取り調べた関係証拠を総合するときは、右被告人三名に対する各公訴事実中、同被告人らが、いずれも昭和二十七年五月三十日午後七時十分ごろ、東京都板橋区板橋七丁目二百三番地所在日本化工機株式会社寮庭において開催された破防法粉砕総けつき大会と称する会合に約三百名と共に参加したこと、同大会において、「警察官の武装解除」その他のスローガンを掲げた宣言文が朗読されたこと、右大会終了後、一部指導者の「これより直ちに行動に移る。」旨の指示号令により、四列縦隊の隊形をもつて、スクラムを組み、労働歌をうたいながら、同所から同区板橋十丁目四十一番地所在板橋警察署岩之坂上巡査派出所方面に向つて無許可集団示威行進を開始し、(以下この集団をデモ隊と称する。)ある者は、会場出口附近において、あらかじめ用意された薪棒の交付を受けてこれを携え、ある者は、途中路上の石を拾つて所持し、ある者は、既に鉄棒様の物を準備携行するなど、それぞれ武器を携えて同日午後七時四十分ごろ、前記岩之坂上巡査派出所前にさしかかつたこと、その際、右のような不穏な状勢から、同巡査派出所がこれらデモ隊員らによつて襲撃される危険を感じ、板橋警察署から、右派出所警備の任務を帯びて派遣され、同派出所前に一列横隊に並んで警備していた巡査部長服部清美外十名の警察官に対し、右デモ隊員らが、包囲隊形をとりつつ、デモ隊員中の多数の者らが、「武器を棄てろ。」「吉田の犬め。」「税金泥棒。」「こんどこそやつつけるぞ。」などと口々に怒号し、同時に右警察官及び派出所に向つて、石塊、薪棒、硫酸ビン等を投げつけて、前示服部巡査部長ら十一名の警察官の公務の執行を妨害し、かつ、その暴行により、同人らに対し、全治一週間ないし十日を要する傷害を与えた事実は、これを肯認することができるのであるが、その際、前示被告人三名が、果して右デモ隊員ら多数の暴行脅迫者と共謀してこれに加担したものであるかどうかの点について考察するに、本件においては、あらかじめ事前において、その首謀者ないし暴行脅迫者らの間に、前掲岩之坂上巡査派出所襲撃についてのいわゆる共同謀議が行われたと認むべき証拠は、記録上みあたらないところであつて、従つて、起訴状記載の公訴事実においても、デモ隊が右派出所前に到達した際において、始めて、暴行脅迫者ら間に共謀が行われたことになつているのであるが、デモ隊が右派出所前に到達した当時においては、いわゆる共同謀議をやつている余裕もなかつたような情勢にあつたことが記録上うかがわれるのであるから、被告人らが右派出所前における共謀に加つたと認められるためには、同人らが、ただ、右デモ行進に参加して派出所前に行き、前示暴行脅迫の行われた際その場におつたというだけでは足りないのであつて、必ずや、右派出所前における同被告人らの個別的、具体的行動中に、他の暴行脅迫者らと互に相呼応し相協力して、警備警察官の公務の執行を妨害する意図の下に、同警察官に対し暴行脅迫を加えようとする意思の発現を認めるに足るものがなければならぬものといわなければならない。このような見地に立つて、左に右各被告人毎に所論の主張について検討する。

一、被告人佐竹英一について。

所論の主張する同被告人が日本製鋼赤羽作業所の元工員で、本件の直前、同作業所を懲戒免職となつたものであること、同被告人が、昭和二十七年五月三十日午後七時十分ごろ、前掲破防法粉砕総けつき大会に出席した際、その演壇に立ち、「愛労の星加、松本を倒せ。」という趣旨の演説をした事実は、いずれも所論列挙の証拠によつてこれを認め得られない訳ではないが、このような事実があつたからとて、これをもつて、直ちに派出所前における共謀に加担した証拠とすることはできない。次に、同被告人が、右派出所前において、前示暴行脅迫の行われた際、薪を持つたままデモ隊中におり、警察官が挙銃を発射した後、始めて同所から逃走し、板橋第三小学校附近まで逃げたところで右薪を棄てたものであるとの所論主張の事実もまた、所論の挙示する証拠によつて認め得られるところであつて、所論は、本件集会及びデモ行進が無届のものであり、同被告人が新聞記事によつて、当日五、三〇紀念日のため、警察も警戒態勢に入つていたことは知つており、前掲大会中「人民広場では警官隊がバリケードをきづいている。」という情報を聞き、デモ行進が途中で警官隊から弾圧された時に、警官に殴られるような事態が起れば、これに反抗するため使用する意図の下に、デモ行進に移つた直後、他人より薪をもらい受け、これを携行していたものであるから、仮りに、被告人において、初めから積極的に警備警察官を襲撃する意図はなかつたとしても、少くとも、デモ行進中、警察官から無届行進の廉により解散を命ぜられ、これに反抗するデモ隊と警察官との間に衝突が起きた場合には、同被告人自身薪を揮つて警察官に立ち向い、その公務の執行を妨害しようとする意図の下に行動していたことを推認し得べく、しかも、現に同被告人は、派出所前で、他の共犯者らが警察官に向い、「武装を解け。」と脅迫したり、投石しているのを聞いたり見たりしておりながら、敢えて積極的に仲間の犯行を阻止したり、あるいは、消極的に薪を棄て、またはその場から逃げ出すようなことをしなかつたばかりか、かえつて、反対に薪を持つたまま現場にい残り、大衆の威力を示して、他の者と共に警察官を脅迫していた程であるから、これらの事実からするも、同被告人に対しては、小鹿原誠一らに加勢して、警察官の公務の執行を妨害しようとする意図のあつたことを十分に認めることができるのであつて、このことは、被告人内田、同秋山についても同様であり、同人らは、竹の棒又は石を持つてデモ隊に参加し、派出所前に行つて、警官隊から発砲されるまでその場にい残つて、他のデモ隊員と意思を通じ、大衆の威力を示して警官隊を脅迫していたのであるから、小鹿原らの所為につき公務執行妨害、傷害罪の成立が認め得られる以上、被告人佐竹、同内田、同秋山についても、同罪の成立を認め得るものといわなければならない旨主張するのであるが、なるほど、前示日本化工機株式会社寮庭に開かれた集会、及びこれに引続き行われた集団示威行進が無届のものであつて、被告人佐竹(被告人内田、同秋山も同様)らが、当日五、三〇紀念日のため、警察においても警戒態勢に入つていたことを知つており、デモ行進に移つた直後、他人より薪をもらい受け、デモ行進中警察官から無届行進の廉により解散を命ぜられ、デモ隊と警察官との間に衝突が起きた場合に、これを揮つてその警察官に立ち向い、その公務の執行を妨害しようとする意図の下に右薪を携帯していたものであることは、記録上これをうかがい得られない訳ではないけれども、原判決挙示の証拠に徴するときは、本件暴行脅迫が開示されたときの情況は、全く右とことなり、警察官側においては、デモ行進に対し、無届行進の廉により解散を命じたこともなく、いささかも干渉がましい言動に出なかつたにもかかわらず、突如として、デモ隊員らによつて包囲隊形がとられ、デモ隊員中の多数の者から暴行脅迫が行われるに至つたものであることが認め得られるのであるから、たとえ、被告人佐竹が他人より薪棒をもらい受けて携えていた意図が、右所論のとおりであつたとしても、その予期した場合と異る事態が発生したものであるから、単に、所論のような同人が右暴行脅迫の行われた当時、薪を携帯したままその場にいて、積極的に他人の犯行を阻止したり、消極的に薪を棄ててその場から逃げ出すようなことをしなかつたとの一事によつて、同被告人が他の暴行脅迫者らと互に相呼応し相協力して、デモ隊に対しなんらの干渉もしなかつた警備警察官の公務の執行を妨害する意図の下に同警察官に対し暴行脅迫を加えようとする意思の発現があつたものと認めることは、いささか無理であるといわなければならない。ところが所論は、この点の証拠として、特に、証人吉田逸の原審公廷における証言及び同人の検察官に対する供述調書を援用し、これによれば、被告人佐竹が特に顕著に暴行脅迫の実行者の一人であるか、少くとも、他の暴行脅迫者と意思を通じ、相協力して行動した者であることが情況上明らかである旨主張するのであるが、なるほど、右吉田逸の検察官に対する供述調書中所論の援用する部分の供述記載によれば、同被告人の派出所前における行動に多分の疑惑の存することは、否定できないけれども、しかし、これによつてもなお、右派出所前における同被告人の個別的、具体的行動を十分明らかにし得ないのであるから、同被告人が右派出所前において他の暴行脅迫者らと共謀してこれに加担したとの本件公訴事実については、結局、これを確認すべき犯罪の証明がないことに帰するものといわなければならない。

二、被告人秋山テイ子について。

所論の主張する同被告人が、昭和二十七年五月三十日当時顔面に絆創膏を貼り、友人西森愛子と共に、上野駅前で、被告人内田和利及び上野高校生らと落ち合い、共に前示集会並びにデモ行進に参加するため、日暮里山の会場に至り、これら行事に参加した事実、被告人秋山が、上野駅前に落ち合つた際、既に、警察官と衝突することのあるべきを予想し、その所持品を同駅附近の知人方に預け、かつ、救護用として指頭消毒器等を携帯した事実、デモ隊が集団行進を開始した際、同被告人が武装しろという声を聞くと共に、皆が薪を手にしているのを見て、同被告人も行進中周囲の者に対し、「石を拾つてくれ。」と依頼し、丹羽明弘が二、三個の石を路上から拾つて渡したところ、同被告人がこれを携えて前示派出所前に至つた事実、並びに同被告人が、派出所前における暴行脅迫等の終了した後、古屋薬局で、脱脂綿を買い求め、かつ、負傷者の手当看護をした事実等は、いずれも所論の挙げている証拠によつてこれを肯認することができるけれども、これらの事実のみによつては、直ちに前記派出所前における同被告人の共謀の点までをも推認することはできないものといわなければならない。所論は、同被告人が、右派出所前において、他の集団的暴行脅迫を敢行したデモ隊員らと協同して暴行脅迫行為をなした事実の証拠として、丹羽明弘の検察官に対する昭和二十七年六月十七日附、同年七月二十三日附各供述調書、証人丹羽明弘の原審公廷における証言等を援用しているのであつて、これらの証拠によると、同被告人が、派出所前において、他のデモ隊員らと共に、「税金泥棒」等の悪口雑言を警察官らに浴せていたような疑が存するのであるし、また、所論は、前示のような同被告人が上野駅前集合時において、既に、警察官との衝突を予期して、所持品を預け、救護用具を用意して来たこと、行進途中において石塊を携行したこと、暴行終了後、古屋薬局内において、負傷者の手当看護をしたこと等の諸事実を総合すれば、同被告人にも、前示派出所前における共謀に加担はた事実が認められる旨主張するのであるが、しかし、同被告人においても、本件デモ行進が無届のものであることを知つていたため、警察官から解散を命ぜられるような場合があるかも知れぬと考え、所持品を他に預けたり、行進の途中で石塊を拾うような行動に出たものと認め得られる点については、前述の被告人佐竹の場合と同様であることが、記録上窺われるのであつて、従つて、被告人秋山が、右石塊を持つたまま、右派出所前で暴行脅迫の行われた当時その場にいただけの事実によつては、未だ、共謀の事実を認定しがたいこともまた、前示被告人佐竹の場合と同様であるし、古屋薬局方において負傷者の手当看護をした点についても、デモ行進の仲間のうちに負傷者が出たような場合に、仲間の一人として、これが手当看護をしてやることは、当然であると考えられるのであるから、これあるがために、暴行脅迫についても当然共謀があつたものと速断することはできないものというべく、従つて共謀の点については、結局、右派出所前における同被告人の個別的、具体的行動によりこれを認定するの外はないと考えられるところ、単に、前示のような同被告人が石塊を携行して派出所前に行き、警備警察官らに対し、「税金泥棒。」等の悪口を口走つたことの疑のみによつて、同被告人が他の集団暴行脅迫者らと互に相呼応し、相協力して警備警察官の公務の執行を妨害する意図の下に同警察官らに対し暴行脅迫を加えようとする意思の発現があつたものと認定することは、困難であるといわなければならない。してみれば、同被告人が他の暴行脅迫者らと共謀してこれに加担した旨の本件公訴事実については、結局、これを確認するに足りる犯罪の証明が十分でないといわなければならない。

三、被告人内田和利について。

所論の主張する同被告人が、日本民主青年団地下鉄班に所属し、一時同班のキヤツプをしたことがあつたが、同人が、昭和二十七年五月三十日、上野駅前で、同じ民青の飯島健雄や西森愛子らと落ち合つた際、警察官との衝突を予期し、いずれも所持品を他に預けた上、前記集会並びにデモ行進に参加した事実、次いで、同被告人が前示デモ隊に加わり、日本化工機寮庭の会場から出発した際、路傍の竹の棒を抜いて携帯し、岩之坂上巡査派出所前に行き、同所において、デモ隊員中の多数の者が、同派出所警備の警察官に対して暴行脅迫の挙に出た際、その場にいた事実は、いずれも所論の挙示する証拠によつてこれを認めるに十分であるけれども、単に、これだけの事実によつては、未だ同被告人が右派出所前において、他の暴行脅迫者らと共謀して前示暴行脅迫に加担したものと認めがたいことは、既に被告人佐竹、同秋山について説示したところと同様であつて、他に右共謀の点を確認するに足りる証拠は、記録上これを発見することができないのであるから、被告人内田に対する本件公訴事実もまた、結局これを認めるに足りる犯罪の証明がないものといわなければならない。

以上の次第であつて、被告人佐竹、同秋山、同内田に対する本件各公訴事実は、原審で取り調べた証拠によつては、いずれもこれを確認することができないのであるから、原判決が、これを認めるに足りる犯罪の証明が十分でないとの理由により、同被告人ら三名に対し無罪の言渡をしたことは、相当であつて、記録を精査し、当審における事実取調の結果をも総合して、検討考察してみても、原審の認定を覆すに足りるものを発見することができないから、検察官の論旨はすべてその理由がない。

(その余の判決理由は省略する。)

(裁判長判事 中西要一 判事 山田要治 判事 石井謹吾)

検察官の控訴趣意

原判決は事実の誤認によつて無罪の言渡をしたものであつてその誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れないものと思料する。即ち、原判決は小鹿原誠一等が昭和二十七年五月三十日板橋警察署岩之坂上巡査派出所前で約三百人のデモ隊員と共謀して服部巡査部長等の公務の執行を妨害し且つ同人等に対し傷害を与えたとの公訴事実を認め乍らも「被告人秋山テイ子同佐竹英一同内田和利同保谷梅吉同武藤賛次郎に対する公訴事実の要旨は同被告人等は被告人小鹿原等について認定した前示日時場所において約三百名のデモ隊員と共謀して服部清美等十一名の警察官に判示の如く暴行脅迫を加えて同人等の公務の執行を妨害し且つ同人等に傷害を負わせたというのであるがこれを認めるに足る犯罪の証明が十分でないから刑事訴訟法第三百三十六条によつていずれも無罪の言渡をする」との理由で右被告人五名に対しいずれも無罪の言渡をしたのであるが、右の内被告人秋山テイ子同佐竹英一及び同内田和利に対する各公訴事実は次に掲げる各証拠によつていずれもその証明十分であつて当然有罪の認定が為さるべきものと思料する。

一、まず被告人佐竹英一については

(1)  被告人佐竹が日本製鋼赤羽作業所の元工員で本件の直前同作業所を懲戒免職となつた者であること及び同人が昭和二十七年五月三十日午後七時十分頃東京都板橋区板橋七丁目二百三番地通称日暮里山所在の日本化工機株式会社寮庭に於て開催された破防法粉砕総けつき大会と称する会合に出席した際、その演壇に立ち「愛労の星加、松本を倒せ」という趣旨の演説をして参会者を鼓舞激励し次で行われたデモ行進を主導したことは、(イ) 検察官に対する丹羽明弘の昭和二十七年六月二十四日附供述調書中(記録四一一九頁裏)に被告人佐竹の言動として「寮の庭で議長が宣言文を読んだ後で、『自分は日鋼を不当に首を切られた。日鋼の組合の委員長愛労の松本を倒せ』という演説をし、次で寮の庭から行進を起した時議長と共に行進の先頭に立つた」旨の供述記載、(ロ) 証人豊原芳男並びに証人丹羽明弘の各証言(第二十七回公判調書、記録一五九四頁)検察官に対する鈴木常雄の昭和二十七年六月二十四日附(公判記録三八〇八頁)西島靖の同月二十四日附(同三九八七頁)平上嗣郎の同月二十一日附(同三八四八頁)各供述調書の記載、(ハ) 検察官に対する被告人佐竹の昭和二十七年七月一日附供述調書の記載(記録四六〇三頁)を綜合して明瞭であり、

(2)  次で被告人佐竹が本件岩之坂上交番前に於て本件デモ隊員多数が警察官に対し暴行脅迫を加えた際、薪を持つて武装したままデモ隊の中におり、警察官が挙銃を発射した後始めて同所から逃走し板橋第三小学校附近迄逃げたところで右薪を捨てた事実は検察官に対する前記被告人佐竹の供述調書中のその旨の供述記載によつて明らかである。本件集会及びデモ行進は無届のものであつてしかも被告人佐竹は新聞記事によつて当日五、三〇紀念日の為「警察も警戒態勢に入つて居た事は」知つて居り、又日暮里山の大会中「人民広場では警官隊がバリケードをきづいて居る」という情報を聞き、「デモ行進が途中で警官隊から弾圧された時に警官に殴られる」様な事態が起れば之に反抗する為使用する意図の下にデモ行進に移つた直後他人より薪を貰い受け之を携行していたものであるから仮に被告人において初めから積極的に岩之坂上交番警備中の警察官を襲撃する意図はなかつたとしても尠くともデモ行進中警察官から無届行進の廉により解散を命ぜられ之に反抗するデモ隊と警察官との間に衝突が起きた場合には被告人自身薪を揮つて警察官に立ち向いその公務の執行を妨害せんとする意図の下に行動していたことを推認し得べく、而も現に同被告人は交番前で他の共犯者等が警官に向い「武装を解け」と脅迫したり、投石しているのを聞いたり見たりしておりながら敢て積極的に仲間の犯行を阻止したり或は消極的に薪を捨て又はその場から逃げ出す様なことをしなかつたばかりか却つて反対に薪を持つたまま現場に居残り大衆の威力を示して他の者と共に警察官を脅迫していた程であるからこれらの事実からするも被告人佐竹に対しては小鹿原誠一等に加勢して警察官の公務の執行を妨害せんとする意図のあつたことを十分に認めることが出来るのである。又このことは他の被告人内田同秋山についても同様で後述の通り同被告人等は竹の棒又は石を持つてデモ隊に参加し交番前に行き警官隊から発砲される迄その場に居残つて他のデモ隊員と意思を通じ大衆の威力を示して警官隊を脅迫して居たのであるから前記小鹿原等の所為につき公務執行妨害傷害罪の成立を認め得る以上被告人佐竹同内田同秋山の各所為についても亦同罪の成立を認め得るものと謂わなければならない。この点原審相被告人の保谷梅吉及び武藤賛次郎の場合の如く唯当日同人等がデモ隊に参加したという証拠があるのみで武器携帯の有無並びに交番前における行動についての確証十分ならざる憾あるのと対比して趣を異にするものあり、彼此同一には論ぜられない。

(3)  しかも被告人佐竹は本件交番前で単に薪を持つていたというだけでなくデモ隊の隊列の先頭部にいて警察官に投石したり脅迫した者の中でも特に目立つた行動をした者であることは、(イ) 検察官に対する吉田逸の昭和二十七年七月三日附供述調書(公判記録四〇〇三頁以下)に被告人佐竹の言動として「私が交番のすぐ脇でデモ隊の交番に迫つて来る模様を見ていましたが其の際石を投げた者や棒を投げた者、何か怒鳴つて騒いで居た者等五名程印象に残つて居ります。」「只今見せて貰つた人は確に交番の前に居つた人で大体先頭に近い方で前列辺りに居つた様に思います。石や棒を投げたり大きな声で怒鳴つたりして居る人を見た時ひどい奴等と云う感じがあつたので印象に残つているのですが、今見せて貰つた人が石を投げたのか棒を投げたのか又大きな声で怒鳴つて居つた人であつたのか記憶が薄れて居りますが何れにしても私の記憶に判然と残つている人であります」との供述記載があり、(ロ) 更に、証人吉田逸の証言(第二十三回公判調書、記録一三四六頁以下一三四九頁)によれば、被告人佐竹の位置、行動について「佐竹に似た人」というが如き稍不正確な表現を用い、裁判長の「その男は何か特別の動作をしていた記憶はないのでせう。証人は先程そう証言したが」との問に対し「ただ自分の前に居た人の顔をどういう人がやつているのかなあと思つて見ましたから分るのです。その当時会えば記憶があつたから、あーその人だなあと分るのです」と答え(記録一三五一頁表)その具体的行動を明らかにしていないようであるが、前掲検事調書と略々類似の事項を証言しているのみならず更に検察官の「証人は去年の七月頃に検事の調を受けた際は現在よりも記憶が正確だと思うのか」との問に対しては、「それは以前は自信を持つてお話出来たと思います」と答え(記録一三五〇頁表)福田主任弁護人の「検事に調べられた際こういう点についてこうぢやなかつたとか、あーぢやなかつたとか具体的に云われて調書をとられたことはないか」との問に対しては、「そういうことは別段なかつたと思います」と答え(記録一三七四頁)て居るのである。而してこのことは、検察官の取調が何等誘導等に基くものでないことは勿論、時日の経過により記憶の薄れた公判廷の証言よりも先に検察官の面前においてなした供述の方がより一層自信を以て事実を正確に述べたことを明らかにしているのである。

(4)  ただ前掲吉田逸の検察官調書によつても、なお未だ被告人佐竹の岩之坂上交番前に於ける具体的、個別的行動を十分明らかにし尽さない憾みがないでもないが、凡そ本件の如く多数の者が集団的に暴行脅迫を為した状況下においてその多数人の個々の行動につきその詳細を認識することは極めて困難であり寧ろ右吉田の如きはその職掌柄とはいいながら比較的よく当時の状況を観察し認識していたものと謂うべきであらう。而して右吉田証人の目撃したところによれば当時同人は暴行、脅迫行為を為しつつあつた多数の者中でも特に顕著に投石喧騒等の暴行脅迫行為に及んだ数名の者を現認していてその数名の一団中に被告人佐竹の加つていたことが明らかにされているのであるから従つてこの事実よりして被告人佐竹がその特に顕著に暴行脅迫を為した実行者の一員であるか、或は然らずとするも尠くとも数名中の他の暴行脅迫実行者と意思を通じ相協同して行動した者であることは情況上明らかであり、被告人佐竹の暴行脅迫の事実は洵に明瞭であるといわなければならない。

之を要するに右吉田証人の公判廷の証言とその検察官調書の供述記載を綜合すれば被告人佐竹に対する本件暴行脅迫の共謀事実はその証明十分と思料せられるのである。

二、次に被告人秋山テイ子については

(1)  被告人秋山が昭和二十七年五月三十日、当時顔面に絆創膏を貼布し、友人西森愛子と共に上野駅前で被告人内田和利及び上野高校生等と落合い共に本件集会並びにデモに参加する為日暮里山の会場に至り之に参加した後、デモ行進に参加したこと、並びに被告人秋山等が上野駅に落合つた際既に警察官と衝突することあるべきことを予想し、その所持品を同駅附近に預け且つ救護用として指頭消毒器等を携帯したことは、(イ) 検察官に対する高須力の昭和二十七年六月十一日附(記録三八七七頁)同年七月九日附(記録三九〇一頁)丹羽明弘の同年六月十七日附(記録四一一二頁)西島靖の同年七月九日附(記録三九九二頁)鈴木常雄の同年六月九日附(記録三七八五頁、三七九一頁裏)平山嗣郎の同年六月十七日附(記録三八四四頁裏)各供述調書の供述記載、(ロ) 証人高須力(第十九回公判調書、記録九五五頁)同藤沼守(第二十四回公判調書、記録一四四一頁)同飯島健雄(第六十三回公判調書、記録四九七〇頁)の各証言、(ハ) 検察官に対する被告人秋山の昭和二十七年六月二十日附供述調書(記録四六四八頁)中の供述記載を綜合し明瞭である。

(2)  次に本件デモ隊が、集団行進を開始した際被告人秋山は「武装しろ」という声を聞くと共に皆が薪を手にしているのを見てデモ隊員が夫々警察官と衝突した場合に備えて反抗の為の得物を携えていることを知り同被告人も行進中周囲の者に対し「石を拾つてくれ」と依頼し、丹羽明弘が路上から二、三個の石塊を拾つて渡したところ、被告人秋山は之を携行して岩之坂上交番前に至つたことは、(イ) 検察官に対する被告人秋山の前記供述調書中「此の場所に着いて約三十分位してから出かけようと云う声が聞こえて向つて右側の班の人々が動き出しましたから私も又立ちあがつて列に加わつて出様とすると誰か男の人が武装しろと小さな声で傍を通り乍ら云つて歩くのを聞きました。」「私は武装しろと云う言葉や薪を手にした者をみて、スクラムを組んで此の様な多勢の人々が禁止されたデモ行進をして行けばきつとお巡りさんが取り締りに出ますからその時抵抗するのに此の様な準備をするのだと思いましたが行先は何処だか解りませんでしたし、又あの様に交番を襲撃に行くと云う事も知りませんでした。やがて交番前の通りに出て、左側の道路上をスクラムを組んだまま私の位置が向いの交番から一寸進んだ時先頭から自然に止まりました」との供述記載、(ロ) 検察官に対する丹羽明弘の昭和二十七年六月十七日附供述調書(記録四一一三頁)中(同人が調室で被告人秋山を見せられたのに対し同被告人は本件当時顔に絆創膏を付けて本件集会及び行進に参加していた者であり、第一の集会地で顔を見た者であると述べた上)「そこから第二番目の集会地へ行く時は何処に居たか知りませんが、第二番目の集会地である寮の庭先に着いて宣言文を読むのを聞いた時は西森と此の絆創膏の女は私の二、三列前に居りました。班編成をして出発する時には此の女は私の右横でスクラムを組みました。女の右にみ知らぬ男が居り私の左は藤沼でした。西森は此の女の前でその左右には上高生は並ばず、私、藤沼の列が上高生の前列でした。此の女は何かを包んだビニールの弁当箱と迄は行かない程度の大きさの包みを持つたりポケツトに入れてみたりし行進しましたが寮の出口を出て坂を下りてから周囲に向つて石を拾つてくれと云うので行進し乍ら地面に手を触れて直ぐ手で地面から抜き取れる奴を二つ三つ拾つて全部渡してやりました。此の女はスカートを覆き鼠色の背広の上衣にその石を入れました。」との供述記載により明瞭である。尤も之に対し、右丹羽明弘は公判廷に証人として出廷し証言した際(第二十六回公判調書記録一五五六頁)寮の庭からデモ行進に移つた隊列の状況、特に右丹羽証人の周囲の者の位置につき、「証人の左側に藤沼、右側に女の人、又その右側に男が居た」旨陳べこの点は前掲検察官調書に述べられた位置配列と同一であり、丹羽証人の「右側の女」とは、検察官調書によれば明らかに被告人秋山を指していたのであるが、公判廷に於ける証言では極めて曖昧に述べ結局裁判長の問に対し「今では違う人と思います」と証言して検察官面前供述を飜すに至つたので該証言の真否如何を検討する必要があるがこの証言が如何に苦しいものであり遽かに措信し難いものであるかと云うことは証言の経過並びにその内容によりたやすく窺知せられ得るところである。即ち例えば検察官の「その時『絆創膏を貼つた女の人です』と云つた記憶があるかどうか」との問に対しては、黙して答え得ず(記録一九六九頁以下)更に裁判長の同様な「この時の調書ではスクラムを組んだ時自分の右側に絆創膏を貼つた女の人が居たと述べているがどうか」との問に対しても黙して答えていない。(第二十七回公判調書、記録一五九三頁)これは畢竟当時顔面に絆創膏を貼布している被告人秋山を現認したことが真実である為良心に咎めて積極的に否定し得ない内心の現われに外ならないと謂うべきであろう。謂う迄もなく丹羽証人は純然たる第三者でなくデモ参加者の一人であつて同人の証言内容如何は行動を共にした者の刑責に至大の影響を及ぼすところから情誼上なるべく被告人に不利な事実は之を秘匿したい気持があるだろうし又この種集団事犯において全ての被告人が犯行を全面的に否定している様な場合同人等の面前に於て丹羽証人の如き立場に在る者から敢て之を積極に肯定する様な証言を期待することは通常至難な事柄とも思われるので同証人の前記証言中「今では違う人と思います」なる旨の証言部分は輙く措信し難いものと謂わなければならない。

(3)  而して次に被告人秋山が岩之坂上交番前に至り、他の集団的暴行脅迫を敢行したデモ隊員と協同して暴行、脅迫行為を為したことは、(イ) 検察官に対する丹羽明弘の昭和二十七年六月十七日附供述調書(記録四一一二頁以下)中被告人秋山の行動に関するものとして「交番襲撃の際は警官隊の挙銃が連続して発射される迄スクラムは誰も解かず身体は右にねじ曲げる様にして交番に面して居ました。私もその際前に申した様に警官に悪口を云いましたが此の女もシキリにギヤーギヤーわめいていました。挙銃が発射されると交番に向つた前列がダアーツと後に下つた折手を離したので私も逃げ恐らく此の女も逃げたことと思う」旨の供述記載、更に同年七月二十三日附供述調書(記録四一一七頁裏)中「交番の前迄スクラムを組んでデモ行進をして行き交番の前でデモ隊の中から石が飛び始めた時迄(上野駅で上高生が七人落合つてから交番の前で投石が初まる迄)絆創膏の女が私達と一緒でした。この絆創膏の女はスクラムを組んで交番の前迄行つた時私の右手に居た女の人で投石が始まつてから交番に向つて色々叫んだ事はこの前に申した通りです」との供述記載、(ロ) 右丹羽明弘の公判廷における証言中検察官の尋問に対するものとして(第二十六回公判調書、記録一五六三頁裏)問「証人の廻りの人もどなつていたか」答「どなつていました」問「右手の女の人はどうか」答「どなつていました」問「その内容はどうか」答「やはり『税金泥棒』と云つていました」問「声がはつきり聞えたのか、それともそんな事を云つていると思つたのか」答「『税金泥棒』と云うのは聞きました」問「その他にも云つていたか」答「盛んにどなつていましたが憶えていません」なる旨の応答証言(但しこの「女」については同人が被告人秋山なることを曖昧にしていることは、前述の通りであり該証言部分の措信し難い所以も亦前叙の通りである)を綜合し之を認めることができる。尤もこの点に間し証人飯島健雄は岩之坂上交番前に於ける情況についての検察官の尋問に対し(第六十三回公判調書、記録四九七六頁裏乃至四九七八頁表)問「絆創膏を張つた女の人はどうだつたか」答「私と同じ横の列で一人置いて右でした」問「個々の人の言動で覚えている事はないか」答「秋山という人が『石を投げるな』と云つた声を聞きました。これは女の人の声だから分りました」と証言しているのであるが右の如く被告人秋山が寧ろ投石を制止するが如く「石を投げるな」と云つたとする飯島証人の証言も結局同証人が前記丹羽証人同様デモ隊参加者の一人である為被告人等の思惑を顧慮しての証言なるべしと推察し得られること等諸般の事情を考察すれば遽かに信を措き難いものがある。

(4)  以上の如き各証拠を綜合するならば被告人秋山が岩之坂上交番前に於て警官に対し暴行脅迫を加えつつあるデモ隊員の中にあつてこれらの者と行為を共同する意図を以て「税金泥棒」等と怒号して喧騒し、その暴行脅迫行為の勢を助けて之に加担したことは証拠上明らかであり又前叙の如く上野駅集合時に於て既に警官との衝突を予期し之に対処する為荷物等を処置したこと救護用具を所持したこと及び行進途中に於て石塊を携行したこと及び後記の如く古屋薬局内に於て負傷者の手当看護をしたこと更には被告人秋山を古屋薬局内に於て逮捕した当時における被告人秋山の模様に関する証人昼間金蔵の公判廷に於ける「一見服装が乱れておりました、女の人は毛糸のセーターか何かの前のボタンがはずれており、パーマの髪が乱れておりました。それでこれは当然加わつたと感じました」との証言(第四十八回公判調書二九四〇頁以下)等を綜合すればデモ隊員が集団にて警察官を襲つた際同被告人自身もその携行した石塊を警察官に投石し暴行脅迫行為に加担したことを推知するに十分である。

(5)  なお、被告人秋山が、交番襲撃後古屋英樹方で負傷者を救護する為脱脂綿を買い求め、同家に於て、所持の救護器具等を用い負傷者の手当看護をしたことは、検察官に対する被告人秋山の昭和二十七年六月二十日附供述調書(記録四六五六頁)証人古屋英樹の証言(第二十五回公判調書、記録一四八一頁以下)検察官に対する古屋英樹の昭和二十七年六月十八日附供述調書(記録四〇五一頁表、四〇五五頁表)並に、証人昼間金蔵の証言(第四十八回公判調書、記録二九三九頁裏以下)により証明十分である。

三、被告人内田和利については

(1)  被告人内田は日本民主青年団地下鉄班に所属し、一時同班のキヤツプをしたことがあつたが、同人が昭和二十七年五月三十日上野駅前で同じ民青の飯島健雄や西森愛子等と落合つた際警官との衝突を予期し何れも所持品を他に預けた上本件集合並びにデモ行進に参加したことは、(イ) 証人飯島健雄の証言(第六十三回公判調書、記録四九五五頁以下、四九七六頁裏、四九七七頁裏)、(ロ) 検察官に対する西島靖の昭和二十七年七月九日附供述調書の供述記載(記録三九八九頁)、(ハ) 司法警察員に対する被告人内田の昭和二十七年七月二十三日附供述調書の供述記載(記録四七一九頁)等によつて認めることが出来る。

(2)  次で同被告人がデモ隊に加わり日暮里山の会場から出発した際路傍の竹の棒を抜いて武装し、岩之坂上交番前迄行き、同所でデモ隊が同交番警備中の警察官に対して暴行脅迫の挙に出でた折皆が警察官の武装解除をしようとしていることを知り乍ら、これと意を通じその場にいて右警察官等に対し暴行脅迫したことは、(イ) 検察官に対する飯島健雄の昭和二十七年七月三日附供述調書の供述記載(記録五〇七五頁)、(ロ) 司法警察員に対する被告人内田の昭和二十七年七月二十二日附供述調書(記録四七一四頁)中に「其処の会場出口の柵の処で労働者の様な人が武器を持つて居ない者は居るかと言いながらデモの列の者に薪の様な太丸の棒を渡していたが、私は後ろの者から押されて其の棒を受取る事が出来なかつた事については前に私が述べた通りであります。私は棒を貰う事が出来なかつた儘行進をして行き、集会をした場所の処を下りた処の橋が掛かつている溝の様な処に一本の棒が地面に突き剌さつて立つているのを見附けましたので棒を貰う事は出来なかつたが丁度良い棒があつたと思つて其の棒を抜いて右手に持つて先に行つて終つた私の竝んで居たデモの位置に駈足で戻つて列中に入つたのであります。(中略)竹棒を拾つた理由としては私が前に述べた様にデモ隊の者は皆んなが棒を配られて持つているし私は貰う事が出来なかつたので若し五月一日のメーデーの時の様な事になつて警察官が弾圧に来た時に戦う為には必要だと思つて行進中竹棒を拾つたのであります」旨の供述記載、(ハ) 司法警察員に対する被告人内田の同年七月十八日附供述調書(記録四六九〇頁)中の「大会で緊急動議として今の警察官の全員武装解除と言う事が出されたのでありますからデモの先頭が交番前で停止した時に私は直感的に交番に居た巡査に代表を送つて武装解除をするのだなあと思いました。その中にデモの先頭が中途から折れて交番の方に寄つて来ました私は其の時インターを歌つて居りましたらデモの後方から交番の巡査に石を投げ付け始め更に大声でどなる者も出、その中警察官が発砲したので同所から逃げた」旨の供述記載

等を綜合してその証明十分である。即ち被告人内田は「警察官が弾圧に来た時之と戦うため」と称して武器にする為竹棒をわざわざ列から離れて取つて来、交番前では皆が警察官の公務の執行を妨害しようとしていることを知り乍らこれを助ける為右の竹棒を持ち、皆とインターナシヨナルを歌つて大衆の威力を示して警察官を脅迫して居ることが認められるのである。

以上の理由により被告人内田も亦同佐竹、同秋山と同様、小鹿原誠一等と共謀して、服部巡査部長等の公務の執行を妨害し且つこれに傷害を与えたことはその証明十分であると思料する。

以上前叙の如き数々の各証拠に基き、被告人佐竹英一同秋山テイ子及び同内田和利等が何れも前記小鹿原誠一等と共謀の上本件公務執行妨害傷害行為を為したことは証明十分であるに拘らず之を証明不十分として右被告人等に対し無罪の言渡をした原判決は、明らかに事実の認定を誤つたものであつてその誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから原判決は到底破棄を免れないものと信じ控訴申立に及んだ次第である。

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